なぜ「豊葦原」か、銅鐸は何に使ったか?

先に、長浜浩明『古代日本「謎」の時代を解き明かす』について記事を書きました(記事はこちらから)。

 

本書の中で、神武東征、「大阪平野の発達史」、邪馬台国(邪馬壱国)、「黥面文身」について、著者が主張するところを記してきました。

 

今回は、引き続いて、以下に、「豊葦原」と銅鐸について、著者が主張するところを記してみます。古事記は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と表現しているが、なぜ「豊葦原の」と修飾するのでしょうか?銅鐸は何に使ったのでしょうか?

わが国では、神代の昔から製鉄が行われていた。最初の原料は、スズ=褐鉄鉱であった。

 

火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中のバクテリアの働きで、葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりに生った。古代の人々は、褐鉄鉱団塊が水辺に層をなすことを知っていた。

 

「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」という意味である。太古、「豊葦原」から生み出されるスズ=褐鉄鉱から鉄を造り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎と認識されていた故に、わが国の美称となった。

 

青銅器は、縄文晩期にシナから導入され、弥生時代になると、その加工が行われるようになる。シナや朝鮮と異なり、弥生人は、銅剣や銅矛を、兵器ではなく、儀器として作成した。それは、鉄で兵器を造ることができたからである。

 

弥生人は、鈴石の象徴である鐸を打ち鳴らして、葦の根にスズが鈴なりに生み出されことを祈った。祭器として矛や鐸は、古くは古事記にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅器を用いるようになった。

 

弥生時代後期から鉄鉱石や砂鉄を用いた鉄の大量生産時代に突入する。この製法の普及により、褐鉄鉱を用いた製鉄は次第に廃れ、スズの生成を祈る銅鐸と銅矛を用いた祭祀の意味が希薄になっていった。

 

シナとわが国とでは製鉄方法が異なる。シナは鋳鉄、日本は野ダタラ、鍛鉄である。曲り田遺跡(前770年以前)や今川遺跡(前600年頃)から発掘された鍛造品の鉄斧や鉄鏃から判るとおり、シナや朝鮮が鋳鉄の時代、わが国では鍛鉄を作っていた。富の原遺跡(弥生中期)の鉄戈は、硬度が異なる材料を合わせた「合わせ鍛え」の技術で造られていた。

 

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