長浜浩明『日本人ルーツの謎を解く』を読んだ(記事はこちらから)ところ、面白かったので、次の本を読んでみました。
長浜浩明『古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった!』(展転社、2012年)
著者は、本書の目的は「世に蔓延る謬論を排し、先人の苦難に満ちた歴史を学び、知恵と教訓を私たちの手に取り戻す」ことだと明言します。
この目的を実現すべく、「大阪平野の発達史」と「黥面文身」とを切り口として、わが国の古代史を科学的、論理的に解明しようとします。解明すべき問題として、次にようなものを採り上げています。
① 神武東征はいつ行われたか?
② 邪馬台国はどこにあったか?
③ なぜ「豊葦原」か、銅鐸は何に使ったか?
④ 日本書紀に記された在位年はどのように解釈すべきか?
⑤ 闕史八代の本質は何か?
以下に、神武東征の時期に関して、著者が主張するところを記します。
戦後数十年に亘り、隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造が明らかになっていった。梶山彦太郎・市原実『大阪平野の発達史』は、採取されたサンプル年代を「炭素14年代」により確定し、大阪平野の形成過程を明らかにした。
大阪平野の形成過程は、①古大阪平野の時代(2万~9千年前)、②河内湾Ⅰの時代(7千~6千年前)、③河内湾Ⅱの時代(5千~4千年前)、④河内潟の時代(BC1050~BC50年頃)、⑤河内湖Ⅰの時代(150~350年頃)、⑥河内湖Ⅱの時代(5世紀頃)、に分類される。
日本書紀は、神武東征においてヤマトへ攻め入った様子を、「当に難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって早く着いた」、「3月10日、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩の津についた」と描写している。
これは、神武天皇の一行が、河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に侵入し、難波碕に着いたこと、そして、干潮時を見計らって川を遡上し、白肩の津についたことを物語っている。
上記の日本書紀の描写は、「河内潟の時代」以外ではあり得ない。神武東征は、「河内潟の時代」に行われた。 |