闕史八代の本質は何か?

これまで、長浜浩明『古代日本「謎」の時代を解き明かす』の中で、神武東征、「大阪平野の発達史」、邪馬台国(邪馬壱国)、「黥面文身」、「豊葦原」、銅鐸、古代天皇の在位年について、著者が主張するところを記してきました。

 

今回は、引き続いて、以下に、闕史八代について、著者が主張するところを記してみます。綏靖天皇から開化天皇までは、事績が記録されていないため、闕史八代と呼ばれるが、なぜ事績が記録されていないのか?

 神武天皇一行は、日向からヤマトの地へと侵入し、限られた兵力で多くの敵と戦い、苦戦を強いられ、時に謀を巡らし、欺き、多くの敵を殺し、内通者を得、切り崩し、何とかヤマト南部の一角に拠点を築くことができた。

 

ヤマトの地に根拠を得た神武天皇は、これからは武力ではなく、大和や摂津の豪族との姻戚関係を堅固にし、オオナムチの神を通じて鉄と武器を支配する部民との絆を深め、各地の豪族との血縁関係を深めることで日本を統一しようとした。

 

神武天皇は、ヤマトの人々から「神の御子」と言われた媛蹈鞴五十鈴媛を正妃に迎えることができた。その結果、神武一行は三輪山を信仰するヤマト一円の人々と近しい関係となった。同時に、ヤマトと摂津の製鉄集団との絆を深め、大己貴神を奉祀する出雲、物部、尾張を始め、各地の製鉄集団にも影響を与え、武器調達の観点からも重要な意味を持つことになった。

 

第2代の綏靖天皇をはじめ闕史八代の各天皇は、武力による服属を求めるのではなく、血縁のメリットを生かし、男系を中心に日本各地の豪族と婚姻関係を築き、鉄と武器を支配し、服属地域を拡大していった。

 

闕史八代は、ヤマト南部の一角に拠点を築いた皇室が、如何にしてこの地から近畿一円、そして各地に勢力を伸ばしていったかを記していた。

 

事績が記録されなかったのは、平和な生活をしていたということ、戦争が少なかったということである。

 

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